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『社会と鋳金』いもののある風景 – モニュメントと鋳金家 『 西郷隆盛銅像 』

勝海舟との直接会談で江戸城の無血開城を実現し、江戸を戦渦から救った西郷隆盛は、西南戦争で一転逆賊とされた。しかしその後、明治22年に明治天皇の特旨により賊名を解かれ、正三位を追贈された。そのことに感激した旧友らの発案により『西郷隆盛の銅像』は、明治24年頃から計画が持ち上がり、2万5千人余りの寄付を集め、明治31年12月18日に除幕式が行なわれた。当初は、何処に建設するか、どんなポーズ・服装にするか、議論百出でなかなかまとまらなかったという。「大山(巌)さんはイタリーのガリバルヂーの銅像から思いついた。シャツ一枚の姿で革命の先頭に立ち民衆を率いるというあの素朴で勇ましい眞実の姿を思い出したのである。そこで西郷さんの眞面目を現すには、一切の名刺を捨て ゝ山に入って兎狩りをしたあの飾りの無い本来の姿がよからうとなって単衣に兵児帯姿のあの銅像となったわけである。これを製作するには、高村光雲氏は随分苦心したらしい、何としても西郷さんの特徴であった唇の感覚が出ない。下手をすると仁王造りとなってしまう。一時はどうにもならなくなって投げ出したものである。あの服装を作るためにいろいろな材料を鹿児島から取り寄せた。連れている犬の紐とか西郷さんの穿く半中草履まで取り寄せたものである。西郷さんの特長はその唇によく出ていた。何ともいえない魅力を含んでいたといはれ、情愛に弱いところが出ていたが、そこにまた不思議に力強いものが現はれていたので、こんなところはたゞの豪傑ではなかったようである。(中略) 銅像が出来てからこれを見た未亡人が、『似て居りません。』と云ったそうだが、大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ。」(『父、樺山資紀』 樺山愛輔著より引用)

計画当初には、勝海舟の書を鋳造して取り付ける予定であったが、「西郷先生のことについては敵の大将に褒めて貰わなくともよい。」と、鹿児島の西南戦争の生き残りや、郷里の人々の猛反対により、中止となってしまったという。

 

(2008年1月撮影 写真:小林京和)

除幕式直前の勝海舟の言葉を紹介する。
「西郷の銅像を上野に建てたとて、それが何だい。銅像はオーキニ有難うって御礼を言ふかい。ヘン、銅像は口をきかないよ。 西郷もおれが居るから西郷だよ。どうだい、閉口したらう。これには一言もなからう。(中略) 往事茫々夢のごとくだよ。
この寒いのに上野へ引っ張り出されてはおれも困るぢゃないか。みんながさぞおほきな顔をして行くだろうから、おれはどうしようノオ。折助 (おりすけ)の身装でもして行かうかい。」『氷川清話』西郷の銅像より引用)

ガリバルディの銅像
( Washington_Square_Park / New York City 1888年鋳造 http://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Garibaldiより引用

ジュゼッペ・ガリバルディは、イタリア統一の立役者。 義勇兵部隊「赤シャツ隊」を率いて戦った。

原稿:小林京和 再編集:松本隆